
「ひのえうま」という響きに、なんとなく聞き覚えはありませんか。
丙午は、干支の組み合わせ60通りのうちのひとつで、暦のうえでは立春から翌年の立春の前日までが、この名前で呼ばれる一年です。
占いになじみのない人にまで名前が届いた干支は、ほかにありません。この干支をめぐる言い伝えが、日本の人口の記録に目に見える跡を残したからです。
丙午の年がわかる3つのこと
- めぐってくるのは60年に一度です。 十干と十二支の組み合わせが元へ戻るまでに、それだけの年数がかかります。
- 1966年に出生数が大きく落ち込みました。 前の年より46万人ほど少ない一年として記録されています。
- はじめは女性についての話ではありませんでした。 火の災いに用心する年、という暦の占いが出発点です。
1966年、統計にくぼみが残った
厚生労働省の人口動態統計によると、1966年の出生数はおよそ136万人でした。前の年が約182万人、翌年は約194万人。この一年だけが前後より50万人近く少ないという形で残っています。
一人の女性が生涯に産む子どもの数の目安になる合計特殊出生率も、2.14から1.58へ下がりました。
戦争も災害もなかった年です。原因として挙げられてきたのが、丙午の年に生まれた女性についての言い伝えでした。出産の時期をずらす判断が広く行われた結果だと説明されてきました。この年は第一子の割合が高かったことも報告されています。
言い伝えが形になったのは江戸時代
中身は、丙午の年に生まれた女性は気性が激しく、夫を不幸にするというものです。
出どころをたどると江戸時代の初めに行き当たります。もともとは丙午の年に火事が多いという暦の占いがあり、1666年の丙午のころに広まったとされます。そこへ、1682年の大火にまつわる八百屋お七の物語が結びつきました。恋のために火を付けたとして処刑された娘の話で、井原西鶴が1686年の『好色五人女』に書き、のちに歌舞伎や人形浄瑠璃で演じられて世に広まります。
ただし、お七が丙午の生まれだったかどうかには諸説があり、確かめられていません。年の火事への用心が、いつのまにか特定の女性の生まれ年の話へすり替わったというのが研究者の見方です。1906年の丙午でも同じことが起き、その年に生まれた女性が結婚をめぐって不利益を受けた記録が残っています。
1966年の数字が示しているのは、干支そのものに力があったということではありません。動いたのは人の判断のほうでした。
丙午の一年に向く4つのこと
丙は太陽にたとえられる干で、午も五行では火に配されます。火が二つ重なるぶん、表に出す力が強く加減が利きにくい一年として説明されてきました。
- 年の初めに、増やす予定より先に上限のほうを決めておく
- 人前に出る用事のあとへ、休む時間を組みで入れておく
- 引き受けた頼まれごとの数を、季節ごとに数え直す
- 誰かの生まれ年を話題にするとき、この言い伝えを持ち出さない
この年の記録が教えてくれるのは、生まれ年で人を測ることの重さのほうです。
1.58という数字のその後
丙午の年に記録された1.58は、その後も比べるときの目印として使われ続けました。1989年に1.57まで下がったとき、迷信で落ち込んだ年さえ下回ったという意味で大きく報じられ、この出来事は「1.57ショック」と呼ばれています。
言い伝えが数字を動かし、その数字が今度は社会の話題を動かしたことになります。
暮らしの中で試すなら
生まれ年が話題になったら、そこから性格を決めつける代わりに、その人が続けてきたことや最近楽しんでいることを聞いてみましょう。暦の名前は共通でも、暮らしの経験は一人ずつ違います。家族の古い記録を読むときも、年号の横に本人の言葉を残しておくと、ひとまとめの説明では見えなかった姿が伝わります。
よくある質問
Q. 次の丙午の年はいつですか
次にめぐってくるのは2026年です。60年でひとまわりするので、その先は2086年になります。年の干支が入れ替わる日は、元日とする慣習と立春とする流派に分かれます。
Q. 丙午生まれの人には共通する性格がありますか
同じ年に生まれた人は100万人を超えます。その全員に当てはまる性格を、年の干支だけでは言い切れません。
Q. 月にも丙午はありますか
あります。5年に一度、午の月に丙が乗ります。ただし月のほうには言い伝えが残りませんでした。くわしくは丙午月・月干支入りにあります。
出典
- 厚生労働省「人口動態統計」各年
- 井原西鶴『好色五人女』および八百屋お七をめぐる江戸期の記録
- 丙午の俗信の成立に関する民俗学・人口学の一般的な研究